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Category Archives: japan

安らぎと希望

安らぎと希望ということについて、聖書から一緒に考えて行きたいと思うんです。実は、聖書はとても厚いですけど、素晴らしい言葉が書かれています。イエスキリストという方がこんな言葉をお語りになりました。それは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて上げます」(マタイの福音書11:28)。ま、こういう言葉をお語りになったんですね。考えてみれば、私たちの人生を振り替えると、色々な重荷があるなあ、いろんな重荷を感じるなあと思われる方、大勢いらっしゃるんではないでしょうか。予想外の出来事が起こりますし、人間関係も困難なこともありますし、時には謝りもあるし、生きていくっていうことはなんか色々な重荷を背負っていながら生きていくんだなあという風に感じるかもしれません。時々その重荷につぶされそうになってしまって、心の安らぎとか、なんかも人生に希望なんてないじゃないかって、思ってしまうようなできごとに遭遇するかもしれませんね。ある人がいました、「わたしたちの人生の主には、少なくても4ある」と言ったんです。 一つは、それは孤独感ということ。一人ぼっち。「孤独っていうのは山の上にあるではなくて、都会の中にある」ってある人が言いました。一人ぼっち。孤独感。孤独感になると、決まり文句があるですよね。どういう決まり文句かというと、「あのひとは、わたしのことをもっとわかってくれたら」、「あの学校の先生がわたしのことを理解してくれたら」、「お父さんお母さん、わたしのことをもっとわかってくれたら」、「主人がわたしのことをわかってくれたら」、そういう「わかってくれたら、わかってくれたら、だれもわかっちゃくれない」。だいたいこういう言葉が出ると、普通は孤独の中にあるんですよ。「わかってくれたのはお前だけだ、ポッチ」。「人間にとって、内的な奥底にある求めは永遠の同伴者を得たいと願っている」とある方が言いました。一緒に誰かが寄り添ってくれる、誰かが傍らに言ってくれる、それを人間はみんな求めているのです。でも、本当にわたしのことを理解してくれる存在がいるのだろうかって思うと、多くの人は孤独と言う重荷を背負ってしまうっていうのです。で、 もう一つは、それは空しさです。空しさって言うのは、これは意味を生み出すことはできない時に、必ず空しさって言うのは起こってきます。人生と言うものの、意味を生み出さなくなったときに、必ずわたしたちの空しさを起こるのです。「あなたは何のために生きているのですか」「あなたの存在には意味があるのですか」「あなたの存在には価値があるのですか」「あなたは愛されるべき存在なのですか」ということに対して、「どうでしょうね、わかりませんよね」というですね。これはちょっと人生に空しさの風が吹いてくるのですよ。空しさはわたしたちの人生の重荷なんです。空しさはわたしたちの人生の安らぎを奪っていくのです。空しさはわたしたちの生きる意欲を失わせていくのです。空しさはわたしたちに希望を奪っていくのです。「あなたは何のために生きているのですか」「あなたが生きている意味は何ですか」。 3番目は、罪責感とか罪意識と言ってもよいかもしれません。わたしたちはもちろん立派なことをたくさんいたしますけど、しかし、自分の心を正直に見つめると、「あんな事をしなきゃよかったなあ」「こんなことをしなきゃよかったなあ」「あんな言葉を語らなきゃよかったなあ」自分の中に罪責感というものを持つことがあると思います。そして、人間って言うのは、聖書を読みましたね。「人間は永遠を思う思いが与えられている」と書いてあるのです。人間と言うものは人間関係の中で、「あんな事をしなきゃよかったなあ」「こんなことをしなきゃよかったなあ」と言う、そういう罪責重荷を持つとともに、何かわからないけど、永遠など存在の前に出るときは来るではないだろうか。本当にわたしは永遠なる方の前に出たときに、立ち尽くすことができるのだろうかと言う、そういう漠然とした罪意識とか不安を抱えている。それは人間だと言われます。別に、わたしは罪責感と言ったですね、別に警察の世話になったとかですね、そういうことを別にわたしはここで言っているではないです。わたしたちの心を見ると、立派なことをした、確かに素晴らしいことをしたでしょう。しかし、心の中に正直に見つめるならば、本当に私は許される存在なんだろうか。まして、永遠の神の前に出たときに、わたしは受け入れられるのだろうか。わたしは裁かれてしまうのではないだろうか。そういう後ろめたさ、罪責を抱えているのだというわけです。これも人間の持っている重荷の一つです。これも安らぎを奪います。 そして、もう一つは、それはだれでもは襲う「死」という問題です。死の現実です。厄介ですよね。人間と言うのは必ず生き、必ず死というものを迎えるのです。でも、「死」というテーマは普通は避けたいテーマです。人は生き、人は必ず死を迎えるのです。例外なし。でも、「死」というテーマは避けがたいです。死というものはみんな避けたい。しかし、現実なんですよ。 わたしたちの人生は孤独感がある、空しさがある、罪意識がある、死ということをだれも避けることができない問題がある、そういう重荷には、わたしたちは抱えながら生きていく。しかし、もし、これらの解決があるとするなら、皆さん、わたしたちは人生には様々なことが襲いますけれども、安らぎが来ると思いませんか。希望があると思いませんか。2000年前、イエスキリストはこの世に来てくださいました。そして、イエスキリストは何というかというと、イエスキリストはこう言ったのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて上げます」(マタイの福音書11:28)。皆さん、こんな招き言葉を語れる人はいないでしょう。だいたい普通はね、疲れた人は「すみません、向こうのほうに行ってください。元気な人、元気な人だけちょっと来てください。」皆さん、これが今の社会じゃないですか。でも、イエスキリストの招きはね、そうではなかった。イエス様はこうおっしゃいました、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ福音書2:17)だというのをイエスキリストがおっしゃったのです。罪人を招くために来たと仰ったエスキリスト、一体何をなさったんですか。もち路素晴らしいメッセージをいたしました。人は例え全世界を手に入れても、あなたの命が損したら、何の得があるかと、人の価値を高く見せてもらいました。しかし、イエスキリストが来てくださった目的は、わたしたちがどうしても解決することができない二つの問題のために、解決のために、イエスキリストが来てくだっさたと言っても禍根でありません。その二つの問題は何ですか。わたしたちが自分ではどうしても解決できない問題、それはわたしたちの心の罪の問題と死の問題ですよ。先ほど話したように、罪というのは別に犯罪を指すではない。聖書によると、罪というのはズレということなんです。皆さん、健康診断を受けてですね、血圧を計って、「ああ、血圧が高いですね。正常値からかなり離れていますね。」もう病のシグナルが出ます。そういうシグナルというのは、体の正常な状態がズレているとそのような状態になるのですよ。 聖書は、人はみんな罪の下にある存在だ。擬人はいない。一人でもいないと聖書に書いてあるのです。「ローマ3:9-10」要するに、人間はみんな先ほど話したように、罪責感を持って、ズレを持っていて、ズレの中に生きている。そのズレが何をもたらすのですか。そのズレは空しさをもたらすのですよ。生きる意味を失わせるのです。不安を残すのです。それで聖書は、罪から来る報酬は死だと書いてあるのですね。ですから、罪の支払う報酬は死ということは、罪の解決は死の解決につながり、死の解決は罪の解決につながるのです。イエスキリストは多くの人を癒されました。しかし、イエスきりストは命をかけたのは一体何でしょうか。この教会にも、十字架がついていますね。十字架、それは処刑の道具です。告白につけられるのです。でもイエスキリストの口には何の偽りもありませんでした。イエスキリストの手は、人々に差し出された愛の手でした。イエスキリストの足は、疲れ、病む人たちのところに向かった足でした。その口に何も偽りのないお方が十字架につけられた。なぜですか皆さん。罪から報酬は死です。わたしたちの実はすべての罪をイエスキリストが背負ってくださって、わたしが受けるべき罰を、わたしたちが受けるべき呪いを全部あの十字架で、処分してくださった。イエスキリストの十字架というのは、あなたのために命を捨てても惜しくない、あなたのためなら、命を捨てよ、あなたの心のズレをわたしは正そう、あなたの心のズレを取り除こう、わたしがあなたに代わって、罪の支払う報酬受けようではないか。そして、十字架についたのです。しかし、皆さん、聖書はそれだけ終わりません。イエスキリストは十字架について、三日目によみがえられたのです。復活された。そんなことが信じられない、と仰っている人がいるかもしれませんね。でも聖書は、イエスキリストは三日目によみがえり、そして、今、信じる者とともに、歩んでくださるお方だと聖書が約束するのです。 人は永遠の同伴者、だれも求めています。聖書は、イエスキリストという方は、あなたの永遠の同伴者になって、あなたの罪を赦すだけではない、あなたに命を与えるのです。「わたしは道です。真理です。命です。さあ、わたしと一緒に歩もうではないか」とあなたを今日招いてくださるのです。 人生には空しさが襲いますよ。でも、聖書は何というのですか。「あなたは神様によって造られた存在だ。あなたは偶然に生まれた存在ではない。あなたの存在、その価値が高い」と聖書がわたしたちに教えたのです。わたしたちは本当に自分の心罪を消すことができません。でも、イエスキリストという方がわたしたちの罪を負ってくださって、そればかりか、わたしたちは例外なしに死を迎えますけれども、死を乗り越えた希望をイエスキリストはわたしたちに与えてくださる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて上げます」と言ったときに、わたしたちは何が必要でしょう。単純に「そうです。自分の心を正直に見つめることです。認めることです。」そして、皆さん、イエスキリストは難しいことを仰いませんでした。「わたしの元に来なさい。そうすれば、わたしはあなたを休ませる。」2番目は応答するだけなんです。立派なことをして、一生懸命頑張って、努力して、イエスキリストを信じるのではない。イエスキリストの招きに、私たちの心を開いて、「イエス様、あなたは造り主です。わたしはあなたを信頼し、歩んでいきます。わたしの重荷を取り去ってください」と祈り求めるときに、その聖書の約束は、あなたに実現するのです。 今日もイエスキリストは、きのうも、いつまでも代わりのないお方です。この方に会って、本当の安らぎと希望を、その安らぎと希望があなたに注がれることを心から願っています。

平穏無事ないつもの日々が...

平穏無事ないつもの日々が... 私たちの生活は平穏無事で快適なものでした。普通に生活し、仕事をして食事の支度や洗濯や買い物に出かけ、庭いじりをして洗車して子供たちと遊び、家族と楽しい食卓を囲んでいました。 突然、次の日にはそれがなくなってしまったのです。まったく変わってしまいました。信じられないことです。ショックです。台風、洪水、地震、自分の力のまったく及ばないことが身の上に降りかかってきたのです。そこに残されたのは死の恐怖と破壊されたものだけです。現実がじわじわと自分のものとなっています。失ったものがあまりにも大きいのです。愛する人々が永遠に逝いてしまいました。家も財産も破壊されました。多くが取り去られてしまったのです。その苦悶は筆舌に尽くしがたいものです。 確かに人に助けられることはあります。レスキュー部隊はできることをしてくれました。知人や隣人は悲しみを共有してくれ、慰めたりサポートしたりしてくれました。知らない方も瓦礫を片付けたり、復興に手を貸してくれました。とても親切にしてくれました。 全てをケアしてくださる方をご存じですか 地上で起こる全ての出来事をご覧になっている存在があることをご存じですか。意外に思われるかもしれません。でもそのような存在の神がおられるのです。神は全てのことと人間をケアされるものです。このような言葉があります。 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ福音書10:29-31) そうです、神は私たちの悲しみをご存じです。神は私たちを愛しておられ最善を望んでおられるのです。神を知ることは災難に平安をもたらします。 志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人がなたに信頼しているからです。(イザヤ書26:3) 神を知ることは安心をもたらします 聖書は、神の愛から私たちを引き離すことの出来るものは何もない、と語っています。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後ろに来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8:38-39) これは安心保証です。そして、最後に何にも勝ってキリストは永遠の希望を与えています。 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1-3) 天国はこの世の悲しみをはるかに超える。表現することの出来ないほどの喜びと平安に満ちているのです。 神の平安を妨げるものとその解決法 紙とその平安についてすでにご存知かもしれません。その平安は私たちの思いをはるかに超えているのです。 あるいはまだ創造主なる神をご存じないかもしれません。しかし、興味があるでしょうか。私たちを神と隔ててしまうのは罪です。すべてのひとには罪があります。 すべてに人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ人への手紙 3:23) そして、みよ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(エゼキエル書18:4) 私たちはこの言葉に賛同できません。「自分は何も犯罪を犯したことはない」と思うのです。その通りかもしれません。しかし、問題は私たちの行動よりももっと深いところにあるのです。それは私たちの心が自己中心であり、神に対して心を閉ざしていることです。私たちの心は生まれつき神に逆らうものなのです。 私たちは皆、多かれ少なかれ神に逆らうものです。そして自分勝手な生き方を選びました。神とは異なる方向を選び取ることが罪をなるのです。罪の結果はその宣告と永遠の死に至ります。 しかし、神はその大きな愛により、ひとり子イエス・キリストを通して完璧な解放を用意されました。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16) イエス・キリストはご自身の命を十字架でささげ、私たちが救われるため身代わりとして死なれました。私たちがキリストに立ち返るとき、罪の赦しが与えられるのです。そいうわけですから、あなたがたの罪をぬくい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。(使徒のはたらき3:19) 私たちがキリストの赦しを信じ、信頼するとき、私たちの自己中心的な心を変えてくださるのです。 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル書36:26) だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙II 5:17) 神は平安を与えることができます 新しい心は神との新しい関係を通して与えられます。私たちは神の子どもとなり、多くの祝福を生活の中で経験するようになります。 真の平安と安らぎはキリストにのみ見出すことができます。それを自分のものとするためには罪を悔い改め、キリストに自分を委ね、キリストを救い主として、人生の主として受け入れることです。 私たちの人生では様々な悲劇が襲ってきます。すでにそのようなことを体験されたかもしれません。しかし、その中でゆるがない平安を持つためには、何よりも、与えられているキリストの愛とその救いを自分のものとすることです。そこに永遠にいたる慰めと平安と安心の祝福があるのです。 写真 : BlogSpot

Sakura di Jepang

Di bawah adalah beberapa foto yang saya ambil pada hari Jumat kemarin, di sela-sela kesibukan saya berkuliah. Sebenarnya mulai dari minggu lalu, sakura sudah mulai mekar di daerah Tokyo. Tapi karena di tempat saya tinggal sedikit dingin, jadi sakuranya agak terlambat berbunga. Tapi untunglah, saya

Catatan Harian: Kamis, 8 Maret 2012

Catatan Harian Pagi Hari Pagi ini saya bangun cepat, pukul 05.30. Saya ambil gitar bekas di kamar dan membawanya turun ke bawah. Saya bermaksud membuangnya karena memang gitar itu sudah tidak terlalu bagus lagi. Sudah agak tua, suaranya kurangbagus, sehingga tidak enak dimainkan. Saat sampai

Festival di Jepang (Omatsuri)

Berikut adalah cuplikan gambar festival yang diadakan pada musim panas di Jepang. Festival ini berlangsung di daerah Hashimoto-Dai, di Prefektur Kanagawa, di dekat Universitas tempat saya berkuliah. Waktu itu saya bersama dengan teman-teman mahasiswa asing pergi bersama-sama untuk melihat festival ini.