平穏無事ないつもの日々が...
平穏無事ないつもの日々が...
私たちの生活は平穏無事で快適なものでした。普通に生活し、仕事をして食事の支度や洗濯や買い物に出かけ、庭いじりをして洗車して子供たちと遊び、家族と楽しい食卓を囲んでいました。
突然、次の日にはそれがなくなってしまったのです。まったく変わってしまいました。信じられないことです。ショックです。台風、洪水、地震、自分の力のまったく及ばないことが身の上に降りかかってきたのです。そこに残されたのは死の恐怖と破壊されたものだけです。現実がじわじわと自分のものとなっています。失ったものがあまりにも大きいのです。愛する人々が永遠に逝いてしまいました。家も財産も破壊されました。多くが取り去られてしまったのです。その苦悶は筆舌に尽くしがたいものです。
確かに人に助けられることはあります。レスキュー部隊はできることをしてくれました。知人や隣人は悲しみを共有してくれ、慰めたりサポートしたりしてくれました。知らない方も瓦礫を片付けたり、復興に手を貸してくれました。とても親切にしてくれました。
全てをケアしてくださる方をご存じですか
地上で起こる全ての出来事をご覧になっている存在があることをご存じですか。意外に思われるかもしれません。でもそのような存在の神がおられるのです。神は全てのことと人間をケアされるものです。このような言葉があります。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ福音書10:29-31)
そうです、神は私たちの悲しみをご存じです。神は私たちを愛しておられ最善を望んでおられるのです。神を知ることは災難に平安をもたらします。
志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人がなたに信頼しているからです。(イザヤ書26:3)
神を知ることは安心をもたらします
聖書は、神の愛から私たちを引き離すことの出来るものは何もない、と語っています。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後ろに来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8:38-39)
これは安心保証です。そして、最後に何にも勝ってキリストは永遠の希望を与えています。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1-3)
天国はこの世の悲しみをはるかに超える。表現することの出来ないほどの喜びと平安に満ちているのです。
神の平安を妨げるものとその解決法
紙とその平安についてすでにご存知かもしれません。その平安は私たちの思いをはるかに超えているのです。
あるいはまだ創造主なる神をご存じないかもしれません。しかし、興味があるでしょうか。私たちを神と隔ててしまうのは罪です。すべてのひとには罪があります。
すべてに人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ人への手紙 3:23)
そして、みよ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(エゼキエル書18:4)
私たちはこの言葉に賛同できません。「自分は何も犯罪を犯したことはない」と思うのです。その通りかもしれません。しかし、問題は私たちの行動よりももっと深いところにあるのです。それは私たちの心が自己中心であり、神に対して心を閉ざしていることです。私たちの心は生まれつき神に逆らうものなのです。
私たちは皆、多かれ少なかれ神に逆らうものです。そして自分勝手な生き方を選びました。神とは異なる方向を選び取ることが罪をなるのです。罪の結果はその宣告と永遠の死に至ります。
しかし、神はその大きな愛により、ひとり子イエス・キリストを通して完璧な解放を用意されました。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16)
イエス・キリストはご自身の命を十字架でささげ、私たちが救われるため身代わりとして死なれました。私たちがキリストに立ち返るとき、罪の赦しが与えられるのです。そいうわけですから、あなたがたの罪をぬくい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。(使徒のはたらき3:19)
私たちがキリストの赦しを信じ、信頼するとき、私たちの自己中心的な心を変えてくださるのです。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル書36:26)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙II 5:17)
神は平安を与えることができます
新しい心は神との新しい関係を通して与えられます。私たちは神の子どもとなり、多くの祝福を生活の中で経験するようになります。
真の平安と安らぎはキリストにのみ見出すことができます。それを自分のものとするためには罪を悔い改め、キリストに自分を委ね、キリストを救い主として、人生の主として受け入れることです。
私たちの人生では様々な悲劇が襲ってきます。すでにそのようなことを体験されたかもしれません。しかし、その中でゆるがない平安を持つためには、何よりも、与えられているキリストの愛とその救いを自分のものとすることです。そこに永遠にいたる慰めと平安と安心の祝福があるのです。
写真 : BlogSpot